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Listen Magazine特集
the HUMANIST
マレイ・ペライアが、バッハの魅力、ハイドンの独創性、モーツァルトへの愛情、ベートーヴェンのソナタの校訂、ハインリヒ・シェンカーの影響、ルバートの重要性について語ります。
インタビュー:ベン・フィネーン
ロンドン在住のピアニスト、マレイ・ペライアの清潔感あふれる演奏は、ヨーロッパの偉大なピアニストたちの中でも、例えばピエール=ローラン・エマールとマウリツィオ・ポリーニの二人が持つ透明感を思い起こさせます。しかし、ニューヨーク/ブロンクス出身のペライアが鍵盤上で見せるリリカルで語りかけるようなフレージング、音階を冷静に意のままに操る能力、自由なテンポ感覚は、彼の演奏に紛れもなくアメリカ的な温かみという独自の特徴をもたらし、米国の当代最高のピアニストと呼ぶに相応しい存在にしていると私は思います。北米出身者として初めてリーズ国際ピアノコンクール(1972年)で優勝したペライアは、その後ソロと室内楽の両方に優れた演奏家となりました。バーモント州で夏期に行われているマールボロ音楽祭に数回にわたって参加した際には、ルドルフ・ゼルキンの薫陶を受け、パブロ・カザルスやブダペスト弦楽四重奏団のメンバーらと共演しました。現在はアカデミー室内管弦楽団の首席客演指揮者を務めています。ウラディミール・ホロヴィッツは彼の素晴らしい友人であり、ペライアがピアニストとして成長するにあたって多大な影響を及ぼしました。一方、音楽思想家としてのペライアを形作ったのは、ハインリヒ・シェンカーの理論でした。ロンドンの自宅で鍵盤に向かっていた彼は、Listen Magazineの電話インタビューに応じてくれました。読者の皆さんは以下のインタビューで、ペライアの言葉がその音楽と同様に豊かな表現力に溢れていることにお気づきになるでしょう。
Listen Magazineで私がインタビューした数人の著名な音楽家は現代音楽の支持者でしたが、あなたは依然として調性音楽の信奉者であると考えて差し支えありませんね。
ええ(笑)、本当は不本意なのですが。私は一時期、現代音楽をたくさん聴き、支持していました。しかし、調性に基づく作品について理解すればするほど、そしてその世界に深く入り込めば入り込むほど、壁のようにそびえ立つ残りの部分にぶつかりました。単純に、そこから先の部分が理解できなかったのです。私にとって…それらは曖昧模糊としたものに感じられました。それからだんだんと分かってきたのは、実際にこの考えは正しいのですが、バッハとそれに関係するすべてが調性を理解する鍵を握っているということでした。バッハを理解するためには、不協和音と協和音およびそれらの働きについて理解することが不可欠です。そして、それを諦めてしまうと、五里霧中に迷ってしまうのです。
数百年に及ぶ音楽の進歩と革新を手にしながら、多くの人々がバッハに回帰しているように思います。
少なくとも私はそうです。もう一度言いますが、これは私が選んだ道であり、もしかしたら間違っているかもしれません。現代音楽の分野にあまり重要な音楽家がいないなどと言うつもりはありません。それに、彼らは愚かではなく、興味深く知的な人々です。しかし、それは私が取る道ではありません。作品の研究を進め、理解を深めるためには調性という基準点が必要だったからです。
ゴルトベルク変奏曲への取り組みについてお話いただけますか?グールドの録音の方が注目度は高いかもしれませんが、あなたの録音は非常に温かみがあり、透明感に溢れていると感じました。
ありがとうございます。ゴルトベルク変奏曲は長い年月をかけたプロジェクトでしたが、まずはイギリス組曲に取り組もうと決めました。イギリス組曲を集中的に研究した後、フランス組曲や平均律クラヴィーア曲集から数曲、そしてパルティータを演奏し、その間にチェンバロ奏者の指導を受けながらチェンバロにも取り組み始めました。その際には、これらの作品をチェンバロでどう表現するかを入念に研究しました。ただし、それはチェンバロで演奏するためではなく、チェンバロでの経験を活かしてピアノでどのような表現上の工夫ができるかを知るためでした。
そして、予期していなかった非常に不思議なことのひとつが、チェンバロの音はすぐには減衰しないということでした。いろいろな意味で、演奏の中のそれ(減衰)は録音を通して聴くと正しく解釈されず、すべての音がそれぞれ分離しているように聞こえていました。チェンバロの録音ではマイクが非常に近いため、「カツ、カツ、カツ」という感覚があります。しかし、実際にチェンバロを弾くとまず感じるのは、ピアノのペダルを思わせるような音の伸びです。これはピアノの場合、ちょっとペダルを踏まない限り不可能です。こうした理由から、私はバッハの楽曲におけるペダルの使い方を見直す作業を始めたのです。私が学生だった頃は、ペダルを使うのは間違いだと見なされていました。しかし今では、ハーモニーを少し残響させることが当時の作曲家たちの精神とスタイルに適っていたのであり、フレージングがあまりぶっきらぼうにならないようにするために時にはペダルを使うことが、もちろんいつもではなく時々ですが、必要だと確信しています。そして、当時(バロック時代)は音が少し残響することが期待されていたのです。
ともかく、チェンバロで研究した後に、ゴルトベルク変奏曲に挑戦する決心をし、約2年の間、継続的にではありませんが主に夏はゴルトベルク変奏曲だけに取り組み、2年後にレコーディングすることを決めたのです。
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ペダルの使い方に関するお話はとても興味深いです。作曲家によってペダリングは変えるのですか?
もちろん、かなり変えます。例えばブラームスを弾く時には、あの温かい響きを得るためにより多くのペダルが必要だとほぼ直感的に感じます。そして、ショパンの場合はペダリングの研究がとても重要です。ショパンのペダリングは非常に独特で、ある箇所で和声を混ぜ合わせたかと思えば、その他の箇所ではそうしなかったりします。したがって、ショパンを演奏するにはショパンのペダリングの研究が欠かせません。
そして、モーツァルトの時代(古典派時代)の楽器は音の残響が少なく、エスケープメントがより明確でした。そのため、モーツァルトを演奏する時はペダルを少なめにします。もちろんピアノなのである程度は使いますが、例えばベートーヴェンほどには使いません。
モーツァルトと言えば、先ほども言ったようにあなたの演奏が持つ透明感と温かみを考えると、自然とモーツァルトの音楽に思い至ります。そして、あなたがレコーディングしたモーツァルトの協奏曲(ソニー・クラシカルでのイギリス室内管弦楽団との共演)を聴くかぎり、モーツァルトとの相性は抜群のようですね。
そう言ってくださると嬉しいです。私はモーツァルトを愛しています。モーツァルトへの愛情が薄れることは決してありません。バッハのことも同様に敬愛していますが、バッハに取り組んでいる時でも、モーツァルトへの愛情は常に持ち続けています。そして、それこそがあなたが指摘する人間的な温かさの理由です。彼は失望に苛まれていても、人々を理解し、愛していると思います。どのオペラを見ても、悪人であろうと気難しかろうと、あるいは本当にあり得ないような人物であろうとも、あらゆる登場人物に対するモーツァルトの愛情が感じられます。その快活な精神は、標題音楽でも、舞台用であっても、コンサートホール用であっても、彼の音楽には普遍的に存在しています。
あなたは以前、音楽家は音楽を外側からよりも内側から理解すべきだとおっしゃっています。そして、あなたがハインリヒ・シェンカーによる楽曲分析に関心を寄せていらっしゃることに気づきました。シェンカーは、音楽が玉ねぎのようにいくつかの不可欠な部分の層で構成されており、内側にはより根本的な層があると考えているようですね。
そうですね、玉ねぎの例えは思いつきませんでしたが、おっしゃる通り、シェンカーの理論には前景、後景、そして中景という3つの非常に重要な概念があります。そして、彼の理論で用いられる分析のためのグラフは、主に中景を取り扱います。なぜなら、後景はすべての音楽でほとんど同じだと彼は考えているからです。これは驚くべき見解です。これは非常に理解が難しい概念であり、これを5分かそこらで説明しようとは思わないのですが。
彼はゲーテの名言を引用しています。「すべては同じだが、常に形は異なる」。言い換えれば、万物、全人類はだいたい同じように機能しますが常に異なっており、常に自身を異なる形で表しています。そのためシェンカーによれば、すべての作品は類似した後景を持ちますが、作品の大部分を決定づけるのは中景であり、前景は中景の表出なのです。
私の考えではこの理論が基本的に批判しているのは、すべての音符が重要であるという考えです。一部の音符はより重要であり、その方向性は音符の集まり自体よりも重要です。そして音符の下には感情を決定づけ、作品の方向性を決める力が隠れています。
「一部の音符はより重要であり、その方向性は音符の集まり自体よりも重要です。そして音符の下には感情を決定づけ、作品の方向性を決める力が隠れています」
このアプローチのどのような点が魅力的ですか?
物は見かけとは違うということです(笑)。本質は外面に見えているものとは違っており、全体を構成する層が存在しています。これにより作曲家が曲全体を捉えた(捉えてきた)方法で全体を捉えることが可能になります。全体として捉えなければ、あれやこれやのちょっとした部分の寄せ集めとなってしまいます。音楽とはそういうものではありません。有機的統一体なのです。そして、いったん前景の層をはがすと、中景の基本的な和音と、全体が直接見えるようになります。これにより作品の本質を理解しやすくなり、頭に留めておくことができるようになります。
私はシェンカーが校訂したドーヴァー版のベートーヴェンのピアノソナタの楽譜を持っているのですが、今あなたはベートーヴェンの原典版を校訂しています。まるで、シェンカーの足跡を辿っていらっしゃるような印象を受けます。
そう言ってくださるのは嬉しいです。私も、なんとなくそう思います(笑)。そうです、私は意図しないうちに、歴史を通じて彼の足跡を辿っているのです。
原典版の校訂はどのような作業ですか?
興味深いです。本当に楽しい作業でした。編者との打ち合わせの前に、私は現存するすべての自筆譜のファクシミリ版を入手しましたが、これは32曲あるソナタのうちの10曲分に過ぎず、多いとは言えません。そこで私は作曲家が残したすべての書き込みが必要だと主張しました。音符や意味を明確にし、彼の目に作品の成立過程がどう映っていたかを見極めたかったのです。そして、これらすべての資料に加えて初版譜を参照した後に、私たちの校訂版がどんな内容になり、どのような目的を果たすのかについて編者と長い時間をかけて話し合いました。そこで私たちが試みたことのひとつは、フレーズの終わりがあまり明確でなく、次のフレーズに移行しているように見える自筆譜のフレージングの再現でした。私たちはベートーヴェンのソナタの中の特定の重要な箇所でこれを試みました。また、音符などに細心の注意を払い、音の違いや強弱の変化の違いを発見しました。思うに、どの校訂者や編者も資料から何かしら違いを発見するものなのでしょう。いずれにしても非常に素晴らしい試みであり、本当に楽しいです。
さらに、運指も手がけられていますね!
ええ!
あなたは運指を決める際に…ほかに適当な言葉が思い浮かばないのですが、より重要な音符をより重要な指で弾くように考えて選んでいるのですか?
ええ、その通りです。運指はフレージングを明らかにし、フレージングと手を取り合って協力します。つまり、安心や弾きやすさのためだけのものではないのです。もちろん弾きやすさもある程度は重要ですが。肝心なのはフレージングを運指で示すことであり、それが私のやろうとしていることです。
「テクニックは常に音楽の外面にあることが非常に重要であり、それゆえに技術面と音楽面の両方で地平を広げることが大切です」
あなたがアカデミー室内管弦楽団とレコーディングしたバッハのチェンバロ協奏曲第1番ニ短調の第1楽章の開始から5分半の所から、際立って長く保持された下降するサスペンションのフレーズがあります。どの部分かお分かりでしょうか?
いいえ、今すぐには分かりません。
では、こちらで音源を再生してみます(BWV 1052の第1楽章(ソニー・クラシカル)の5分32秒~6分3秒を流す)。そして、この後に弦楽器と通奏低音が戻ってきます。崩壊する寸前にあるように思われたこのフレーズ、そしてこの音楽が、先へと進んでいく様は目を見張るばかりです。あなたとアカデミー室内管弦楽団は一体となっています。これは、時としてバッハの時代のかつらや厳めしさといった不本意な見方をされる室内楽が、このような水平的な動きによっていかにエキサイティングなものになりうるかという偉大な例です。
ええ、私はそのことに感謝するとともに、あなたが「サスペンション」という言葉を使ったことに感謝します。なぜならあれは間違いなく、サスペンションだからです。人々は誰でも常に音楽に耳を傾けるわけではありません。しかし、私たちはそれが好きなのです。
私にとっては、これはルバート感覚の問題です。
その通りです。
そして、バッハではルバートは必ずしも行われません。私は以前にあなたがイネガル(奏法の)ルバートについてお話しになったのを聞いたことがありますが、これはそれ以上の、より変化に富んだ、テンポの揺らぎだと思います。
その通りです。私は、音楽は常にリズム的に声部の進行に依存していると感じています。言い換えれば、厳格なリズムは声部進行に沿わないので、音楽に沿わないのです。サスペンションが出てきたら、その音が解決するまで少し待ちます。これは複雑な話です。いずれにせよ、声部進行はルバートに表れる傾向にあり、その結果、私はリズムは常にある程度の自由を持つと考えています。この点に関して興味深いのはC.P.E.バッハがリズムの自由について尋ねられた時の言葉です。「父の音楽は譜面通りに演奏できますが、私の音楽は1小節として譜面通りに演奏できません」。これは多分真実だと思います。(J.S.)バッハの音楽は非常に力強いので、ストレート(楽譜通り)に演奏すれば済みます。私自身はそういうやり方をまったくよしとしませんが。
あなたは間違いなくストレート(譜面通り)には演奏されませんね。
ええ、しません。私が好むバッハの演奏は、カザルスの演奏のように、ストレート(楽譜通り)ではないものです。ランドフスカの演奏もまったくストレートではありません。彼女がルバートでやってのけることはとにかく驚くべきものです。そして、現代のチェンバロ奏者たち!(グスタフ・)レオンハルトや(ボブ・)ファン・アスペレンはルバートで演奏します。それは彼らの演奏ではまったく自然なことです。チェンバロでは完全に譜面通りに演奏することはできないと思います。ただいずれにせよ、C.P.E.バッハに関しては、彼自身が言ったように、感情が定義され洗練されれば、よりルバートが要求されると思います(オランダの鍵盤楽器奏者グスタフ・レオンハルトはこのインタビューの直後に、アムステルダムで逝去しました。享年83歳でした。編集部注)。
あなたの人生で出会った師から授けられた、音楽の見方を変えた重要な教訓や洞察について教えていただけますか?
そうですね、まず「バッハは常に人間であり、その音楽は人間の感情に関わっていた」というカザルスの言葉から始めたいと思います。これは私にとってとても重要なことでした。なぜなら1950年代から60年代にかけて、特にドイツのオーケストラの演奏は非常にストレートで、私はその影響を受けました。ホロヴィッツは「ヴィルトゥオーゾ以上のものになりたかったら、まずヴィルトゥオーゾになるべきだ」と言い、私たちは一緒にヴィルトゥオーゾ的な音楽に取り組んだのですが、それも私にとって非常に大きな意味を持ちました。テクニックは常に音楽の外面にあることが非常に重要であり、それゆえに技術面と音楽面の両方で地平を広げることが大切です。これらはとても重要な教訓でした。マネス音楽大学でカール・シャハターやフェリックス・ザルツァーから受けた指導も非常に意義深く、私の音楽への見方を決定づけました。これら3つの経験すべてが、私に大きな影響を与えたと思います。
シャハターは偶然にも、シェンカーのドーヴァー版の楽譜に新しい序文を寄せていますね。
その通りです。
あなたの先生と、先生の先生から受け継がれる学問の系譜にあなた自身がいらっしゃるのは嬉しいことですね。
ええ、本当にありがたいことだと思っています。
オーケストラ演奏については何か考えをお持ちですか?いつかモーツァルトの交響曲ツィクルスを振ることはあるのでしょうか?
アカデミー室内管弦楽団と共演する時は、いつも交響曲も演奏しています。モーツァルトの交響曲も数多く指揮しました。第35番(「ハフナー」)、「リンツ」(第36番)、後期3大交響曲、「プラハ」(第38番)もです。モーツァルトの交響曲を演奏することは大きな喜びです。そして現在、私たちはハイドンの交響曲に取り組んでいますが、ハイドンの交響曲も本当に素晴らしい作品です。こうした古典派時代の楽曲には重点的に取り組んでいます。
ハイドンの交響曲は、より大編成の壮大な交響曲の作曲者の陰で見過ごされがちです。ハイドンの交響曲の魅力についてお話しいただけますか。
とても独創的な点です!ベルリンで、ベルリンフィルに入る前の若手奏者のオーケストラ“アカデミー”のメンバーたちと「オックスフォード」交響曲(第92番)を演奏したときのことです。各小節が全く予期できないものでありながら必然的であり、常にウィットに満ちていながら、そのウィットは奇妙でも不自然でもないのです。それはまさに音楽が語っているのであり、私はその独創性に驚嘆しました。例えば、「ディー、バババ、ブン、バババ、ブン」という主題を逆さまにしたり、拡大、縮小したり、あらゆる方法で用い、それでいて知性に訴えかける感じではなくまったく自然なのです。本当に楽しい経験でした。私はハイドンの創意の豊かさに圧倒されています。
まだ取り組んでいないピアノソロ曲で、今後もっと時間をかけたいものはありますか?
ええ、ディアベリ変奏曲を研究したいですね。折を見て短い時間を割いていますが、もっと時間をかけて取り組んで、いつか演奏できたらと思っています。それからまだ演奏していないベートーヴェンのソナタがひとつあります。第32番作品111です。これもまた、弾いてはいるのですがコンサートで演奏したことはありません。いやあ(笑)、考えてみると色んな曲がありますね。ショパンもまだ演奏していないものがたくさんありますし、ハイドンのソナタやシューマンなど、取り組むべきピアノのレパートリーが多数あります。
アンネ=ゾフィー・ムターはLISTEN Magazine[VOL. 3、NO. 1]に掲載されたインタビューで、若手の有望な音楽家たちが自分の視点を持っていないことが問題だと指摘しました。そして、昨日アーノルド・スタインハートと話したのですが、あなたが偉大である理由は、自分の視点を持っていること、そして誰から見ても決して観客受けを狙った演奏をしていないことだと言っていました。
ああ(笑)、それはありがたい言葉ですね。でもそれは当たっています。私は非常に揺るぎない視点を持っており、それは各方面から受けた影響や、恐らくは私の行ってきた研究を基盤として培われてきたものです。いくつかの点でシェンカー理論の影響を受けてはいますが、それはひとつの確固たる視点であり、私の音楽に関する判断を大きく特徴付けています。
この記事は、Steinway& Sonsが出版する受賞歴のある季刊誌「Listen:Life with Music & Culture」に掲載されたものです。定期購読のお申込みはこちら(英語)をクリックしてください。